日本人が春を感じるイベントと言えば、お花見。
桜の木の下で飲食を楽しむというのは、日本でしか見られない文化とも言われています。
桜は私たち日本人と深く関わりがあり、神話に登場する神様が「桜」という名前の由来になったとされる説もあるほど、その歴史はかなり古に遡ります。
古事記や日本書紀にも登場するコノハナサクヤヒメ(漢字表記:木花咲耶姫・木花之佐久夜毘売・木花開耶姫など)という神様。日本神話に登場するもっとも美しい女神とされます。天照大御神(アマテラスオオミカミ)の孫にあたるニニギノミコトが、その美しさに一目惚れし結婚を申し込んだほど。美しく、短命で儚く散ったというその生涯になぞらえ、女神の名前「咲耶(サクヤ)」が転じて「サクラ」になったとも言われているようです。
また、『さくら』の「さ」は、稲や田んぼなど、農業の作神のことを表し、「くら」は神様が座る台座である依り代を意味しているという説もあります。農耕民族である日本人にとって、桜は農業の神様でもあり、種まきから収穫までを見守っていると考えられていました。
時代ごとの“お花見”の変遷
お花見の起源には諸説ありますが、今から1300年前の奈良時代、貴族の文化として始まったとされています。大陸文化の流入により、中国で愛好されていた『梅』の花鑑賞が流行するようになります。飛鳥時代から奈良時代にかけて編纂された日本最古の歌集『万葉集』でも、桜の歌より梅の歌が多く詠まれており、梅の人気が窺えます。
もともと日本に自生していた桜と、中国から渡ってきた梅。外来種だった梅は、普通に自生していた桜と比べて大切に扱われていたようです。
平安時代に入ると遣唐使が廃止され国風文化が主流となり、花の代表格が梅から桜へと移っていきました。都が平安京に遷都した際、紫宸殿に植えた「左近の梅」が、時を経て桜に植え替えられたこともあり、貴族たちが桜を貴ぶようになったのです。
文献に残っているお花見で最も古いものが「日本後紀」に登場する「花宴の節(かえんのせち)」だと言われています。嵯峨天皇によって神泉苑で開かれたことが記録に残っており、以降、宮中の恒例行事として定着していきました。
桜の下で宴をしている貴族の様子は、「源氏物語」にも記されており、平安時代前期に編纂された「古今和歌集」でも、桜を詠んだ歌が多く残されています。「春を象徴する花」として桜がその代表格になっていったんですね。
鎌倉時代に入ると、それまで貴族の風習であった花見が、武士階級まで広まっていきました。兼好法師の随筆『徒然草』には、身分のある人と田舎者の花見の違いが書かれていることから、京だけでなく地方でも花見が催されていたことがわかります。
宴会形式の花見が行われ始めたのは、安土桃山時代。豊臣秀吉が催した「吉野の花見」や「醍醐の花見」が有名で、参加者は数千人、徳川家康や前田利家、伊達政宗といった名将たちも集まる盛大なものだったようです。
花見の風習が庶民に広まっていったのは江戸時代になってから。徳川家光が創建した寛永寺に吉野の山桜を移植し、江戸で初めての桜並木が出現します。八代将軍 吉宗は、浅草や飛鳥山など、庶民の行楽のための桜の名所を江戸の各地につくりました。誰もが身分を超えて花見を楽しめるように、吉宗は家来と一緒に羽目を外して楽しんでみせたと伝えられています。庶民も花見の名所では、飲食しながら歌や踊り、仮装などを楽しんだといいます。花見の宴では、昼間からお酒を飲んで騒いでも良しとされているなど、身分を問わず“無礼講”が許されたんですね。
花見を心待ちにし、桜の季節が楽しみになっていったというように、日本人は桜に対する愛着を深くしていきました。
桜にちなんだ美しい言葉の数々
桜に関する美しい言葉が日本にはたくさんあることからも、日本人の桜に対する想いの深さを窺い知ることができます。
花筏 はないかだ/
水面に散った花びらが連なって流れているのを筏に見立てた言葉。晩春の季語。
花明かり はなあかり/
桜の花が満開で、闇の中でも周囲がほの明るいこと。「花々の明るさが夜を照らす」という意味の大和言葉。
徒桜 あだざくら/
はかなく散る桜のことで、儚いものの例えとしても使われる。浮気な女性や遊女のを指す言葉でもある。
花衣 はなごろも/
花見のときに着る衣装のこと。
花疲れ はなづかれ/
花見に出かけて疲れてしまうこと。
花便り はなだより/
花の咲き具合を知らせる便り。特に、桜の花について。
桜にちなんだ言葉は他にもたくさんあります。
朝に見る「朝桜」、夕方に見る「夕桜」、夜に見る「夜桜」など。
桜の季節なのに冷え込む寒さを表す「花冷え」や、桜の花にかかる雨「桜雨」、なかなかすっきりと晴れない様子を「花曇」と言うなど、天気にまつわる言葉も。
「零れ桜」、「若桜」、「飛花」、「落花」、「花吹雪」など、桜の状態を表す言葉も非常に多く存在します。
桜や春に関係した日本の伝統色
日本では古来より暮らしの中に多彩な色合いを取り入れ、繊細で豊かな情趣を愛してきました。
伝統色の色数は千を超えるとされており、多様な色彩だけでなく、風雅で文学的な色名も素敵です。
その中から、桜や春に結びつきの強い色を一部紹介します。
桜の花弁にイメージされる赤みを含んだ淡い紅色のこと。紅染めの中で、もっとも淡い色。
ほんのりと酔った女性の頬の様子にも使われます。平安時代に広まった色名で、当時の桜である「山桜(やまざくら)」を指し、山々を優しく染めてゆく山桜の花の色に由来しています。
紅花一斤(いっきん=約600g)で絹一疋(いっぴき=二反)を染めた色。
紅花はとても高価で、濃く染めようとするほど高額になるため、紅花染で濃く染めた色は禁色とされ、庶民の使用は禁止されていました。 一斤染のような薄い紅染の場合は、「聴し色(ゆるしいろ)」として身分が低いものにも着用が許されており、このことから一斤染の別名は「聴色」とも呼ばれます。
最も薄い紅染めの色とされる「桜色」の中でも、さらに薄い色です。
淡い紅色をさらに細かく分類していることから、日本人の繊細な感性があらわれています。
「薄花桜(うすはなざくら)」とも呼ばれます。
やや灰色がかった明るい桜色のこと。
桜色に薄墨がかった「桜鼠(さくらねずみ)」も同系統ですが、「灰桜」の方が明るくやわらかい風合いです。
鼠色が流行した江戸時代後期以降の色名と言われます。
灰色がかった、くすんだ紅色。
長春とは本来「常春」の意味で、古く中国から渡来した「庚申薔薇」の漢名「長春花」からきており、この薔薇の花が色名の由来です。
落ち着いた色合いで女性に人気があり、大正時代に流行しました。
桜の代表格“ソメイヨシノ” 元は1本の木から派生したクローンだった
庶民の間に花見が広まっていった江戸時代には、桜の品種改良が盛んに行われるようになりました。
江戸時代後期、この品種改良によって誕生したのが「染井吉野(ソメイヨシノ)」。いまや桜の代名詞とも言われる品種です。
染井村(現在の豊島区駒込)の植木屋によって、「大島桜(オオシマザクラ)」と「江戸彼岸桜(エドヒガンザクラ)」を交配してつくられ、桜の名所として有名な「吉野」にあやかって、「染井吉野」と名付けられました。
成長スピードが早く、大ぶりで薄紅色の花をつけることから、お花見の文化も相まって、明治時代以降に全国で植えられるようになりました。
ソメイヨシノは自家不和合性という性質を持っていて、ソメイヨシノ同士の自然交配によって子孫を残すことはできません。ソメイヨシノと他の品種の桜を交配することはできますが、それは別の品種になってしまいます。
そのため、“接ぎ木”によって全国に植えられました。 接ぎ木とは同じ遺伝子を持つ個体を複製すること。
遺伝子研究の結果、1995年、ソメイヨシノは単一の樹を始源とする、栽培品種のクローンであることが明らかになりました。
全国のソメイヨシノはすべて同じ一本の原木からのクローンなのです。
津山市・岡山県の桜の名所
院庄林業の本社がある津山市にも、市民から愛される桜の名所があります。
その一つが「鶴山公園」。
もとは「津山城」があった場所で、本能寺の変で討死した森蘭丸の弟、森忠政が1616年に鶴山(つるやま)に築いた平山城です。明治の廃城令で、建造物は全て取り壊されましたが、立派な石垣が当時の面影を残しています。
約1,000本の桜が咲き誇る景観は見事で、日本の「さくら名所100選」に選定されており、岡山県屈指の桜の名所。
毎年見頃には、津山さくらまつりが開催され、多くの人で賑わいます。
今年の開催は2024年3月23日(土)~4月7日(日)となっており、期間中はライトアップされた夜桜も圧巻の景色を見せてくれます。
詳しくはコチラ 津山さくらまつり
そして岡山県の桜の名所は他にもたくさんあります。
旭川さくらみち
岡山市内を流れる旭川の東岸約1kmに渡り桜が咲き誇る、市街地の定番お花見スポット。
がいせん桜
「日本で最も美しい村」に認定された岡山県新庄村にある、全国的にも珍しい宿場町の桜並木。
醍醐桜
樹齢は約1000年、県下一の巨木といわれ、日本名木百選にも選ばれた一本桜です。山里の原風景の中、凛とそびえ立つ圧倒的な存在感。
鎌倉時代末期、幕府により後醍醐天皇が隠岐配流の際、この桜を見て賞賛したといわれ、この名がつきました。
今年もお花見の季節がやってきました。
桜やお花見について想いを馳せながら、お花見を楽しんでください♪